生きている証がほしくて必死なんだよ。
2019年11月7日、また1ヶ月ぶりの医大精神科診察の日が来た。
次の診察日をスムーズに予約できるよう、来月のパートのシフトを確認する母の隣で、私はなぜか泣いていた。
ぽろぽろと胸に落ちる涙のシミは放っておいた。
診察前、トイレの中で具合が悪くなった時の出来事。
「体調が優れない方はこちら」と書かれた呼び出しボタンを押して
だれかが来てくれるのを待った。
けれど、誰も来る気配がなく、何度もボタンを押してはひたすら待ち
それでも誰も来る気配もなく倒れこみながらトイレの外に出た。
「何かあった時の為」のボタンが壊れていることが悔しくて、腹が立って、
アレは何のためにあるんだよと思いながら
私は車いすで運ばれていった。
1時間ほど横にならせてもらった後
診察時にトイレのボタンが壊れていることを伝え、この1ヶ月の生活を話し
そして精神障害者保健福祉手帳の交付について以前話したのがどうなっているのかと聞いた。
隣にいる母は、「それ、いる?」とでも言いたげだ。というか、言っていた。
私は、生きている証を残したくて必死なんだよ。
母にそう言った。
そっか。
なんて言うかと思ってた。
母は「記念品?」と言って笑った。
誰が、記念品で障害者手帳を欲しがると思う?
一瞬、殴りそうになった。
初めて、母を、本気で。
「お金かかるのに。」
「私は障害者ですって言いたいの?」
「障害者枠で就職するの?」
「それ、必要なの?」
これ、全部母に言われた言葉。
どうしてそんなことが言えるのだろう。
娘が障害者だと恥ずかしいの?
私のことを考えて言っているのは分かっている。
けれど、私は、どうして、誰に想われていても私を大切にしたいと思えないのだろう。
せめて、私がちゃんと生きているのだと目に見える形にしていたいと思うことに、笑う権利は誰にある?