みゆきち闘病日記

これって何の病気なの?解離性健忘、パニック障害、発達障害、てんかん…の診断を下されたり否定されたり。いつも不安と闘ってる。どうしたらフツウに生きられるんだろう。届け、人生に悩む、全ての人々へ。

グレーにすること。

9月末のある日のお昼ごろだったか

身に覚えのない封筒がカバンの中に入っていて

中身はお札だった。

 

本当に何なのか分からなくて

いつぞやのケーキ代かな?

なんて思って財布にしまった。

 

その後、仕事終わりの母が私に言った。

「お小遣い、弟にも渡した?」

 

そうか。

あれ、弟と2人分のお小遣いだったんだ。

もしかしてお姉ちゃんの分もあったのかな?

たぶん、この間おばあちゃんちに行った時にでももらったのだろう。

 

とまぁ、ここまでなんとなく推測できた。

 

「今日渡すよー。」

 

母には

何も覚えていないことも

全く思い出せないことも

話さなかった。

 

なんとなく話しにくかった。

話せなかった。

 

だって、今度の薬にしてからなんか調子良いかもーなんて話してたのに

 

やっぱりまだ…なんて

 

思われたくなんかなかったの。

 

良いの。

 

嘘はついてない。

 

ただ、秘密にしただけだよ。

 

 

今だけ、がんばってみて。

台風が近づいてきた。

たぶん、今日中には通り過ぎる。

風の音がする。

雨は降っていない。

心臓がドキドキしている。

私がいる場所よりもっと危ないところにいる人がいるのに

なんて私には関係なくこわい。

お父さんもお母さんもいない。

彼も今日は仕事だから電話もできない。

窓から明かりが差し込んできた。

光が見える。

どうせなら、この風を吹き飛ばしてくれないだろうか。

一人で何度もスマホを開く。

特にすることは無く、意味は無いのだけれど。

文字を書いて落ち着かせる。

やっぱり効果は無いみたいなんだけどね。

大丈夫だよ。

いつか、落ち着くから。

お母さんは、やっぱりお母さん。

2019年10月10日、今月の診察の日

 

前回の診察からの3週間の内

始めの2週間はなんともなかったのに

生理が終わるころから急に具合が悪くなるようになった。

3日間ほど体調が良くない日が続いたけれど

あまり覚えていないのだ。

 

その始まりは家族で祖父のお見舞いに行った時だった。

 

初めて、自分で自分をシャットアウトしていくのが分かった。

「あー、今、私が私を切り離してるな」って。

思いながら、気が遠のきながら

とにかくじーーっとしていたことは覚えている。

 

いや、していたんじゃない。

動けなかったんだ。

 

私の様子がおかしいのに気付いた母。

私を病室から連れ出した。

薬を飲ませてくれて、頭はぼーっとしたまま

その時の私には時間感覚は無かったけれど

10〜20分程度で落ち着いたらしい。

 

あの日一日のことは

最近の出来事なのに、もう1ヶ月以上前のことみたい。

頭の中ではすごく遠い記憶になってしまったみたい。

本当は、今週の出来事なんだけどね。

 

前回の診察からの3週間の出来事、またその時の私の様子

母はばっちり覚えてくれていた。

 

私が知らない私の事を知っていた。

 

よく見てくれていたんだな。

今も見てくれている。

 

息苦しいなんて思ってごめんね。

たぶん、これからもそう思うことあると思うけど。

 

でも、お母さんがいてこそ

私はだんだん元気になれるんだと

本当に思うよ。

 

海外のヘルプカード?

病気になって初めての旅行。

旅行先は、広島県宮島。

写真を撮るのが好きな彼に誘われ、ついていくことにした。

 

もし旅行中に発作が起きちゃったらって

少し怖い気持ちもあったけれど

それより楽しみが大きかったから一歩を踏み出せた。

 

念の為と覚悟してヘルプカードをカバンにつけて、出発。

旅行に行くのは、お母さんたちには、ナイショ。

 

途中乗った電車はほぼ満席で座れなかったので

仕方なく立っていた。

今日は調子もそんなに悪くないし、まあ大丈夫だろう

くらいに思っていた時

外国人の子供づれの方々に囲まれた。

 

そういえば…海外にヘルプカードもしくはヘルプマークって浸透してるのだろうか?

 

ふと、自分のカバンについているヘルプカードを手に取ってみる。

(↓ヘルプカードを取得した時の話はコチラ)

https://smiyukichi-diary.hatenablog.com/entry/2019/08/03/153748

 

英語表記は、無い。

 

もしかして、この人達はヘルプカードのこと知らないんじゃないかな…?

 

どうしよう。

もし、この身動き取れない状態で

過呼吸とか、逆に呼吸が止まったりしたら…

 

こういう時の為の優先席も

ツイてないのか空いていない。

 

不安が募る。

 

 

結果、発作がおきることはなかった。

 

埋まっていた優先席の内の1人が降りた瞬間に座り

なんとか自力で落ち着くことができた。

 

 

ヘルプカード以外もそうだ。

マタニティマーク、ハート・プラス・マーク…

 

つけていれば安心、なんてことはない。

いざという時に必ずしも役に立つわけではない。

 

それでも、それなら、

それを必要とする私たちが発信源になるべきなんだ。

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見たことないな。

なんだろう、アレ。

なんて思う人に、解ってもらえるようになるために。

そして、自分以外の苦しむ人の将来も救われるために。

いつでも戻ってきてね。

元アルバイト先にずっと預けっぱなしで

置きっ放しだった

お給料と荷物を取りに行った日

 

「いつでも戻ってきてね。」

元バイト先の社員の方は、帰り際、言ってくれた。

 

階段も手すりにつかまらなくちゃのぼれないくらい

歩くのが少し不自由な時だったけど

喋るのも上手く出来ない時だったけど

 

誰もが私の様子を

とても気にかけてくれていた。

 

本当は少し緊張していたのに

 

そんなのどうでもよくなるくらい

 

本当に、来て良かった、と思った…。

 

みんな、私のこと覚えていてくれた。

 

私は、たしかにあそこで、生きていた。

 

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もしからしたらの話だけど。

 

もしもがあれば、また、よろしくお願いします。

明かりを探そう。

実家で生活するようになったのは

入院したころからだから

もう半年以上も経つのか。

 

夜中目が覚めた時も、昼間家にいても

部屋の電気がつけられない。

 

私一人のために電気をつけるのがもったいないもの。

 

私がいなかったら

消されているはずの電気だし。

 

いつか、自分で部屋の明かりをつける日がくるのだろうか。

 

電気がつけられないのなら

太陽の下にでも

月の下にでも

行ってみようか。

 

私がどうこうしなくても

ずっと存在してくれている明かりがあるから。

退職前の話。続き

専門学校は1月でほぼ授業もテストも終わり。

あとは3月の卒業を待つだけ。

 

だから、私を含め大抵の人は2月からもう就職先に

アルバイトとして仕事に入ることになる。

そして、4月から社員として働くのだ。

 

2018年3月11日

 

(偶然にも震災があった日と同じ日付だ…。)

 

あの日

 

あの日の言葉が

今でも頭にこびりついてはなれない。

 

「近付かないで」

 

私の教育担当ポジションの上司に言われた言葉

 

彼女は彼女で、前の職場でいわゆるパワハラにあってたらしい。(社長に聞いた話)

 

でも、私にきちんと話もせず

「人に近づかれるの苦手だから」の一言。

 

言われたことをスルーしたり整理したり

周りのフォローが大切なのも、分かる。

違和感を感じ始めて社長に相談した時、彼女に事情があるからとフォローするよう言われたのみ。

 

じゃあ、私のことは?なんて思ってしまうのは、私がいわゆる「かまってちゃん」だから?

 

涙が止まらない暗い道を歩いた。

家に着いたら声をあげて泣いた。

その日、夜ご飯を準備する手を止めてお姉ちゃんが背中をさすってくれた。

冷たいお茶をついでくれた。

ありがとう。お姉ちゃん。

 

結局、その約1ヶ月後に退職。

 

少しずつアルバイトでリハビリを始めたけれど

 

笑顔が作れない

声が出しにくい

会話しづらい

判断しにくい

 

記憶がとんで、急に話がとぎれる、変わることが増えてきた。

 

体はたしかにSOSを出している。

 

退職して本当に良かったと、心から思う。

 

今の私は、初めて会う人に堂々と

ニートです」と言う。

私が私を認めるために。